九相図はなぜ生まれたのか?日本美術の地獄絵の系譜

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日本の仏教美術に登場する地獄を描いた世界。

美しいものを描くだけでなく人の死も描かれた九相図。

どのように九相図は生まれたのでしょうか。

九相図が完成するまでの歴史の流れを追っていきます。

仏教伝来からの九相図ざっくり年表

「日本書紀」に百済からの使者によって仏像・幡蓋・経論がもたらされたとあります。

・7世紀半ばに作られた「玉虫厨子絵」「天寿国繡帳」に始まる日本の古代絵画史は経変の歴史そのものです。

奈良時代の日本では写経が盛んになりました。

・8世紀には「地獄変」が出現。

・平安時代には歳末の宮中行事「地獄変屏風」も立てられた。

・平安時代末期に後白河上皇の周辺で「地獄草紙」「餓鬼草紙」「病草紙」「辟邪絵」といった六道絵が成立した。

 そして仏典と直接の関係を持たない作例ではありますが

 仏教説話などからの影響が色濃く表れている 「伴大納言絵巻」「粉河寺縁起絵巻」 も成立した。

平安時代の1140年に鳥羽離宮に閻魔堂が作られた。

・平安時代末期に密教の閻魔天曼荼羅を母体として

 鎌倉時代に徐々に分岐し、独立する形で成立した閻魔王像の存在があきらかになる。

鎌倉時代の13世紀後半に聖衆来迎寺の「六道絵」が制作された。閻魔王が描かれている。

・中世初頭の日本では九相観を主題にした逸話が流行。

鎌倉時代にも「九相図巻」「人道不浄相図幅」が作成された。

・室町時代中期には出光美術館が所蔵している「六道絵」が作成。

室町時代には九相を詠んだ漢詩や和歌を詞書とした「九相図絵巻」が登場。

江戸時代初頭には歌仙絵の図像と合わさった「九相詩絵巻」。

・各地の寺院では九相図の絵解きが行われるなど、近世九相図は大衆化を遂げ、幕末・明治まで描き継がれてきた。

 

 

地獄が描かれる理由

日本の絵画史は仏典と密接に結びついています。

外国からやって来た仏像や仏典を理解し 

経典見返し絵・絵巻・掛幅などの形式で絵画化されました。

 

仏典に記された内容を彫塑や絵画によって表すことを

漢訳仏典では変相と呼びます。

変・変相
経説に基づく絵画のこと。

 

仏典の中の出来事や情景仏様の姿可視化することへの欲求が

絵画という技術そのものの発展を促しました。

 

絵として表現されたのは光り輝く仏の世界だけではありませんでした。

仏典によって照らし出された世界の片隅には

思いがけない暗闇が浮かび上がっていました。

 

奈良時代の仏教に大きな影響を及ぼした「華厳経」には

仏の足元から放たれた光が

世界の隅々を照らし出す場面があります。

「華厳経」は大乗仏教仏典の1つです。

 

その時、仏菩薩の姿が明らかとなる一方で

世界の最下辺には地獄の情景も広がっていました。

 

「千手経」も同様です。

観音が発した光によって世界の隅々があまねく照らし出され、

全てが金色に輝いて瞬時に救済される場面です。

表面には千手観音を中心とする仏菩薩などの群像で表された浄土変相図が刻まれています。

裏面には最上部には仏菩薩の世界があり、天界を経て 

現世の人間が住む閻浮堤

その下に18個の燃えさかる炎の山

人骨や亡者の姿が表されています。

 

仏教の世界において地獄までを組み込んだ総合的な世界観で描かれていたんです。 

 

人間のすみか(閻浮堤)は地獄と極めて近く

仏菩薩の世界には果てしなく遠いのです。

このような図像を通して浄土への憧れが

地獄の恐怖と表裏一体のものとして浸透しました。

 

平安時代には1年の罪を悔い改めるための会が歳末の宮中仏事として定着しました。

その宮中仏事では多数の仏を書いた「一万三千仏画像」が本尊として用いられる一方で、 

仏事空間の背後には「地獄変屏風」が立てられました。

 

仏の世界の反対側に悪行によって落ちる最悪の場所が

屏風という大画面によって見えることで

仏事に参加する貴族たちの祈りは一層強くなったと思います。

 

宮中に仕えていた清少納言もこの「地獄篇屏風」の気味悪い様を枕草子に書き記しています。

 

 

六道絵の種類

出典『中世仏教絵画の図像誌 説教絵巻・六道絵・九相図』より「六道絵」第一幅 一部分のみ(出光美術館)

「地獄草紙」

東京国立博物館が所蔵する「地獄草紙」は四段で構成されています。

その内容は叫喚地獄十六別所のうち四つの別所に該当します。

現存する全四段に詞と絵が備わっており、「正法念処経」に依拠する絵巻です。

「正法念処経」は出家間もない一人の比丘に対して、

仏が宿業と三界六道の因果を説く形式で

因果応報とその結果としての六道輪廻が百科事典のように説かれています。

「地獄草紙」の製作者たちは経典を正確に理解した上で、

経典への忠実さだけでなく絵巻としての内容の整合性を追求しています。

読み物としての平易さや面白さが意識されていて、絵は詞書に忠実です。

「餓鬼草紙」

現在、「餓鬼草紙」として伝わるものは2種類あります。

「餓鬼草紙」は経文を忠実に踏襲する一方で

画面に現実的な描写を加え、

鑑賞者にとって馴染みのある情景の中に餓鬼の姿を展開しています。

餓鬼の住処が人間の世界とごく近いところに位置しています。

人間界の近くを徘徊し、残飯や汚物など不浄の食物をあさり、

餓鬼供養にあずかる餓鬼の奇怪さと滑稽さを併せ持つイメージが描かれています。 

 

「病草紙」

「病草紙」はかつて名古屋の関戸家に伝来した16場面に

その連れとみられる断簡を合わせた21場面の総称です。

病苦を通じて人道が表されたものと解釈し「地獄草紙」「餓鬼草紙」と一連の六道絵として、

後白河上皇周辺で制作されたとされています。

「病草紙」は平安時代における医学、説話、仏教といった要素が織り込まれており、 

症例集、説話絵巻、経説絵巻としての様々な性格が組み合わさったものです。

 

「辟邪絵」

後白河上皇周辺で制作された地獄草紙の一部と見なされていましたが長らく典拠不明とされてきました。

中国の文献から「辟邪」の図に基づく、

元来は吉祥のモチーフであったとして「辟邪絵」と名付けられました。

近年、「辟邪絵」の五段に「勘当の鬼」を一段加えた合計六段

「鬼神地獄」として理解すべきであるとの新設が提案されました。

これらの絵の主題は善神が鬼神を懲らしめる「辟邪」ではなく、

鬼神や疫神にとっての苦しみを表した六道絵の一部であると考えられています。 

 

聖衆来迎寺の「六道絵」(閻魔王兆庁幅)

六道絵は見るものに死生観を軸にした世界認識の形成を促すものです。

 

聖衆来迎寺が所蔵する「六道絵」は

迷いの世界である六道(地獄・餓鬼・畜生・ 阿修羅・人・天)を十二幅、

堕地獄からの念仏による救済説話を二幅、

閻魔王庁における死後の裁きの場面を一幅にあらわす全十五幅です。

閻魔王の姿は平安時代初頭から知られていたようですが、

それが絵画や彫刻に表されるのは平安時代後期に至ってからとされ

作例が残るのは鎌倉時代以降です。

 

聖衆来迎寺の「六道絵」は堕地獄からの救済が描かれています。

一旦地獄に落ちたところからの救済場面を表しています。

最悪の場所から念仏によって救われることが強調されています。

 

「九相図」

中世近世の日本で描き継がれた人の死体の絵です。 

肉体への執着を滅却するために

死体が朽ちて骨になるまでを観相する修行に用いられる図像です。

九相図についてはこちらの記事で詳しく解説していますのでご覧ください。

九相図の10番目!?仏教美術の妖しくも美しい死の絵画を解説

 

九相図巻と聖衆来迎寺の六道絵(全15幅)のうちの1つである「人道不浄相幅」

どちらも「摩訶止観」に基づくもので非常によく似ています。

どちらも鎌倉時代に書かれています。

「人道不浄相幅」 は肉体の不浄と無常の表象としてだけでなく

現世と死後の世界を分かつ境界の図像としても機能しています。

1223年に供養された醍醐寺琰魔堂の壁画には

九相図の壁画があったとされています。

醍醐寺琰魔堂は堂外に描かれた九相図が

現世と冥界の境界領域を示す図像として描かれた可能性が高いとされています。

 

 

まとめ

今回は九相図についてだけでなく「地獄草紙」「餓鬼草紙」「病草紙」「辟邪絵」「六道絵」など死にまつわる絵をお話ししました。

死後の悪い世界を描くことで生きている間に悪いことをしないようにしましょうという心がけのためのポスターといったような機能でしょうか。

美しい絵画だけではない美術の世界にも踏み込んでいただけたら嬉しいです。

 

 

参考文献

書籍

山本聡美.『中世仏教絵画の図像誌 説教絵巻・六道絵・九相図』.株式会社吉川弘文館,2020年,476p

山本聡美,西山美香.『九相図資料集成 死体の美術と文学』.有限会社岩田書院,2009年,246p

 

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